7月23日に開幕する東京オリンピックで3大会ぶりに実施される野球競技。これまで7大会に出場し、熱戦を繰り広げてきた野球日本代表の過去のオリンピックでの戦いを振り返る。第1回は、プロ選手の参加解禁前に行われた1984年のロサンゼルス大会、1988年のソウル大会、1992年のバルセロナ大会、1996年のアトランタ大会の奮闘の歴史を紹介する。
1984年のロサンゼルス大会からオリンピックでの野球競技が始まり、この時は公開競技として行われた。日本は前年のアジア予選でチャイニーズ・タイペイに敗れて出場権を獲得できなかったが、東西冷戦の影響による東側諸国のボイコットによりキューバが出場辞退。日本に急遽、参加資格が転がり込んだ。
そのような棚ぼたでの出場だったが、選手19人(大学生7人、社会人12人)のうち16選手が後にプロ入りしたように、若手有望選手たちを中心に構成されたチームは躍進を遂げる。8カ国を2つに分けた予選リーグを2勝1敗で勝ち上がると、決勝トーナメントでは準決勝でチャイニーズ・タイペイを延長戦の末に破ってアジア予選の雪辱を果たした。
決勝戦は開催国のアメリカと対戦。相手にはマーク・マグワイア(元アスレチックス、カージナルス)らプロ入りを控えた選手ばかりだったが、広沢克己(元ヤクルトほか)の本塁打などで6対3の逆転勝ち。完全アウェーのドジャースタジアムで日本が初代王者に輝いた。
1988年のソウル大会も公開競技として行われ、前回大会と同じく8カ国で開催された(またしてもキューバは不参加)。選手19人(大学生3人、社会人16人)のうち、プロに進んだのは13人。野茂英雄(元ドジャースほか)、古田敦也(元ヤクルト)、野村謙二郎(元広島)と名選手を数多く輩出することになった。
予選リーグを3連勝で首位通過した日本は準決勝で開催国の韓国と対戦。石井丈裕(元西武ほか)、潮崎哲也(元西武)、野茂の好投に、打線も中島輝士(元日本ハム、近鉄)の本塁打や古田の犠飛などで応えて、3対1の逆転勝ちを飾った。
決勝は前回と同じくアメリカだったが、ティノ・マルティネス(元ヤンキースほか)に2本塁打を浴び、隻腕ながら後にMLBでも大活躍を遂げるジム・アボット(元エンゼルスほか)に粘りの投球で完投され、3対5で敗戦。前回大会の雪辱を果たされて、日本は銀メダルとなった。
正式種目となった1992年のバルセロナ大会からは野球大国・キューバも参戦。予選リーグを1試合総当たりで、その上位4チームで決勝トーナメントを争う形式になった。2000年のシドニー大会まで3大会連続で出場し「ミスターアマ野球」と呼ばれることになる杉浦正則(日本生命)もこの大会からの選出だ。
予選リーグを5勝2敗の2位で通過した日本は準決勝でチャイニーズ・タイペイと対戦した。だが予選リーグで完封された郭李建夫(元阪神ほか)をまたも打ち崩せず、2対5で敗戦。3位決定戦の相手はアメリカで、ともに3大会連続のメダル獲得を争うことになった。
アメリカはジェイソン・ジアンビ(元ヤンキースほか)、ノーマン・ガルシアパーラ(元レッドソックスほか)、ジェイソン・バリテック(元レッドソックスほか)らを揃える強力布陣だったが、小久保裕紀(前野球日本代表監督)の先制タイムリーなどで奪った8点を、伊藤智仁(元ヤクルト)、杉山賢人(元西武ほか)、杉浦の継投で3点に抑え、見事に銅メダルを獲得した。
1996年のアトランタ大会は予選リーグで大苦戦を強いられた。キューバとの第2戦を延長10回の激闘の末に3対4の逆転サヨナラ負けで落とすと、続くオーストラリア戦も6対9、アメリカ戦では5対15でオリンピック初のコールド負けを喫し、まさかの3連敗となった。
だがそこからチームは結束。ニカラグア、韓国、イタリアに3連勝して3位で予選リーグを通過すると、準決勝ではアメリカと対戦。この年のアメリカは日米大学野球を含め日本には1度も負けていなかったが、大久保秀昭(元近鉄、現ENEOS監督)、今岡誠(元阪神、ロッテ)、高林孝行(当時、日本石油)、松中信彦(元ソフトバンク)、井口忠仁(現資仁、ロッテ監督)の5本塁打など打線が大爆発して11対2の大勝。アマチュア最強の呼び声高いキューバとの決勝戦に進んだ。
迎えた決勝戦は、このオリンピックで最後となった金属バットの使用を惜しむかのような壮絶な打ち合いになった。予選リーグ、準決勝と活躍してきた杉浦が連投で先発して打ち込まれるも、松中の満塁本塁打で同点に追いつく。しかし地力に勝るキューバは後半も手を緩めず9対13で敗戦。金メダルこそ逃したが、日本の高い投手力や守備力、結束力に加え、打撃でも引けを取らないことを証明する価値ある銀メダルだった。
次回は初めてプロ選手が参加し、アマチュア選手との混成チームで金メダル獲得を目指した2000年のシドニー大会の戦いぶりを紹介する。