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"世界の野球"インドネシア野球「卒業旅行と野球 バリ島」

2017年4月24日

文・写真=野中寿人

 世界有数のリゾート地として有名なインドネシアのバリ島。既にバリ島につきましては「神々の島」「最後の楽園」「癒しの島」などという代名詞から、読者の皆様方もバリ島の名前はご存知のことだと思います。この項ではバリ島の歴史を簡単に記し、表題の「卒業旅行と野球」について皆様方にご説明したいと思います。

 バリ島の大まかな歴史としては、紀元前2000年ごろにオーストロネシア語族という人種が移り住んだとされています。この語族は東地区としてイースター島、西地区としてマダガスカル島、そして南地区はニュージーランド、北地区を台湾からハワイまでとする広範囲に分布していた人種とされています。また、後にインドや中国から金属器文化や稲作文化がバリ島に伝わりました。

 4世紀にはジャワ ヒンドゥー教を主宗教としたジャワ人のバリ島への来住によって、バリ島はヒンドゥー ジャワの時代を迎え、文化の発展を続けます。9世紀に入ると、バリ人によるワルマデワ王朝という王朝が誕生し、益々の繁栄をしていきますが、14世紀に東ジャワのスラバヤ近郊地区に誕生したジャワ王朝であるマジャパヒト王国の侵攻を受けて、ワルマデワ王朝は滅亡し、400年余続いたバリ人による王朝は幕を閉じます。
 このマジャパイト王国についても、マレーシアやタイの一部分に至るまでの東南アジア広範囲を統治した一大王国として、歴史上その名を知っている方々も非常に多いと思います。

 しかし、一大栄華を誇ったジャワ ヒンドゥー教のマジャパイト王国も、15世紀を迎えると、貿易などを通じてスマトラ島からイスラム教勢力が徐々に入りこみ衰えていきます。この時、イスラム教への改教を拒んだマジャパイト王国の貴族や僧侶たち、芸術師や工芸師たちが、ジャワ島からバリ島に逃れ移ったのでした。この大規模な移住によって10世紀から14世紀にかけて繁栄したジャワ ヒンドゥー文化は、バリ島にてバリ ヒンドゥー文化として継承され、今日に至る結果となったのでした。すなわち、バリ島にあるバリ ヒンドゥー文化とは、旧ジャワ ヒンドゥー文化が覆い重なっており、バリ島は、古来のインドネシア文化を垣間見ることが出来る唯一の場所とも言えます。

 また、バリ島に継承されたバリ ヒンドゥー文化(旧ジャワ ヒンドゥー文化)は、オランダ植民地時代から統治国であるオランダによって「最後の楽園」 として、ヨーロッパやアメリカなどに紹介され、バリ島観光が開始されると多くの方々が訪れるようになりました。その経緯は1920年に初めてオランダ王立郵便船会社の定期船が、バリ島のシガラジャ港に就航したことにより、バリ島がオランダを通じて広くヨーロッパ諸国に紹介され観光客を増員したのです。また、欧米にも「最後の楽園」としてバリ島が紹介されたことで、観光地としての知名度が上がりました。更に1924年にオランダ領東インドの主な場所を巡る観光定期船も就航され、これがバリ島の観光地の創始となります。

 また、それまでオランダの軍の施設を観光の宿舎としていましたが、1928年にオランダ王立郵便船会社がバリ島のデンパサール地区に島内初のホテルとなる、バリ ホテルを開業し、ここで観光客相手にバリ舞踊が公演されていました。加えて1931年にフランスのパリで開催された国際植民地博覧会では、インドネシア統治国のオランダはこの開催時において博覧会の主としたものは、インドネシアの他の島で文化ではなく、バリ島のバリ ヒンドゥー文化で、ウブト地区のプリアタン村からガムラン劇団隊を編成させて、国際植民地博覧会に参加させたのです。この結果、バリ島の知名度は一気に高まり、現在に至るバリ島観光の、バリ舞踊やガムラン演奏、バリ絵画やバリ彫刻などが発展していきます。当時、高級ステータスの観光地と位置づけされたバリ島には、チャップリンや、ロックフェラーの一族なども観光旅行に来ています。

 その後、オランダから日本の統治国を経て1945年の第2次世界大戦の日本敗戦直後に、インドネシアの独立宣言が施されスカルノ初代大統領が就任。しかし、翌年の1946年には、日本の敗戦によりオランダが、以前の様に統治国としてインドネシア征服を企て東インドネシア国を建国させます。尚、この東インドネシア国はバリ島を中心に、セルベス島、ティモール島、ジャワ島、ボルネオ島の東側の地域に該当する範囲で、その初代大統領にはバリ人のラコー スカワティを就任させたのです。

 1946年から4年間、最終の完全独立を勝ち取る為のゲリラ戦争がオランダとの間で展開されます。このゲリラ戦争には多くの残留日本兵の方々が、インドネシア軍を指揮してオランダと戦っています。このゲリラ戦争は「ムルデカ17805(Merdeka 17805)」という題名で映画化されていており、2000名余もの残留日本兵の方々がインドネシアの完全独立戦争に参加したという当時の様子が描かれています。
 尚、このゲリラ戦争での有名な実話として、バリ島では、バリ人のグスティン ウングラ ライ将軍(後にバリ島の国際空港に命名)と共に残留日本兵の方々が、バリ島のパドゥン県マルガ地区でのオランダとの戦闘で、降伏勧告を受け入れずに壮絶な玉砕(ププタン マルガラナ事件)をしています。この玉砕に際し、グスティン ウングラ ライ将軍がオランダに送った文書には「ムルデカ アタウ マティ(自由か死か)」と書かれていたそうです。

 この独立ゲリラ戦争後インドネシアは完全たる独立をし、1966年サヌール地区に日本の敗戦賠償金によって、バリ ビーチ ホテルが開業します。翌年の1967年にはウングラ ライ国際空港が開港し、今までの船舶での観光から空路への観光に移行していきました。その後、第2代スハルト大統領の時代には観光による外貨獲得として、バリ島の観光開発に一層の拍車がかかり、バリ島は世界的な観光地へと成長することとなったのです。

 ジャワ ヒンドゥーを継承しながら、独自性を加えてバリ ヒンドゥーという世界にひとつしかない宗教形態を確立発展させ、オランダによる植民地統治時代にヨーロッパ諸国やアメリカにバリ島が紹介され、今日のバリ島観光へと歴史を繋げてきました。この様な背景からバリ島は、インドネシアに属するひとつの州/島にすぎませんが、首都のジャカルタではなく、バリ島がインドネシアの代名詞と位置づけられる傾向の由縁とも言えましょう。
 また、オランダがバリ島を植民地化する為に、1906年にバドゥン王国、1908年にはクルンクン王国を滅ぼしますが、この時に両王国が行ったププタンという無抵抗による集団大量自決は、日本の神風特攻隊や白虎隊などに相通じる精神と魂でもあります。(後のグスティン ウングラ ライ将軍がオランダに送った「ムルデカ アタウ マティ(自由か死か)」に連動)

 そして、このププタンという無抵抗による集団大量自決によって、オランダはヨーロッパ諸国を含む世界各国から非難を浴びることになります。原始的な槍や盾しか持たないバリ島内の王族に対して、オランダは鉄砲など近代的な武器を使用し、しかもバリの王国は一切の応戦はせず、ガムランを演奏し無抵抗の行進にて殺害され、また死にきれない者は老人や子供に至るまで自決を行いました。この世界的非難によりオランダは、バリ島内の伝統文化を保全する植民地政策を取らざるを得ず、一度解体をさせたバリ島内の各旧王族へ従来通りの実質統治を任せ、あたかも腫れ物を扱うかの様に間接統治方法を施工したのです。この間接統治政策こそが、バリ島の貴重な伝統や文化の保護と継承に至ったのです。

 日本の愛媛県と同じくらいの面積でしかないバリ島、インドネシアの首都でもない地方州でしかない島、インドネシア国内でププタンと呼ばれる自決を決行した気丈なバリ人の気質、地図を見てもインドネシアの島々内でも小さな部類に入るバリ島です。しかし、首都でもない小さなこのバリ島に世界各国の国賓が渡航をし、重要な国際会議が開催されているのです。この様な部分からも、バリ島は深い意味を込めて、世界各国の人々が魅了に惹かれ何度もバリ島を訪問する。まさに世界に類を見ない場所と言えるのではないでしょうか。

 以上がバリ島観光の簡単なご説明になり、次にこの項の本題である「卒業旅行と野球」との関連を記させて頂きます。

 日本の大学の野球部の生徒が卒業旅行でバリ島に渡航をし、観光とは別に野球の指導講習をバリ島内のインドネシア人選手に行うという、新しい1つのプログラムの形態が既に開始されています。この「卒業旅行&野球」は、2007年に日本大学準硬式野球部の卒業旅行にて大学4年生がバリ島に来訪をし、バリ島観光と野球を行なったことが原型となります。そして昨年の2016年には、この2007年のバリ島卒業旅行&野球を正式な1つの大学内野球部のプログラムとして継承復活化し、日本大学準硬式野球部の4年生が、卒業旅行でバリ島に来訪したのでした。

 特に卒業前に異国で野球指導を通じての国際交流は、言語も通じない他国人への指導という部分から、個人のキャピタルを拡大させるものです。文化や風習の異なる人達とのコミュニケーションの計らいは、現状の自己の殻を破り、新しい殻の外壁を形成します。そして、日本での「当たり前のことは、異国では当たり前ではない」という細部に至るまでのカルチャーショックからも、今まで当たり前だと認識をし続けてきた事柄への大きな「気づき」と、恵まれた当たり前のことに対しての大きな「感謝」を抱き、認識の角度を変更すべく自己の許容範囲を枠内に蓄積して行くことになります。
 自己の世界観とグローバル化への変貌は、この様な未知と不慣れな環境に直面し、不安と手探りの中から体験と経験をすることで強く培われるものです。書物や体験談を見、聞くだけでは本当の知識は培われません。実際に体験をし、その経験が新しい知恵となり、自己の引き出しに収納されるのです。

 今年も、1つの年間プログラムとして位置づけられたバリ島での「卒業旅行&野球」プログラム」は、2月中旬から下旬にかけて、帝京大学準硬式野球部、日本大学準硬式野球部がバリ島卒業旅行で来訪し、貴重な体験プログラムを遂行しました。バリ島滞在中の観光を除く終日、朝から夕方までバリ島内のインドネシア人選手と野球をし、指導や講習を施すこのプログラムは、バリ島という世界有数のリゾート観光地だからこそ成り立つものです。余談ですが、インドネシア国内でのクラブチーム大会を開催する際にも、バリ島での開催とジャカルタやスラバヤ、他の地域での開催とでは、バリ島での開催の方が大会への参加チームの数も多いという大きな異なりが生じます。すなわち、国内的にもバリ島というリゾート地のネームバリューは他の都市や地域よりも数段大きいのです。

 バリ島に存在する世界で1つのバリ ヒンドゥーという宗教形態や思考性、価値観に触れ、バリ島内のインドネシア人選手へ野球指導を施し、就職という人生の荒波に乗り出す学生から社会人への狭間である人間として1つの大切な時期に、諸々の体験と経験から自己を大きくし、異なる視点と価値観を受け入れ、吸収と消化をして社会に出て行って下さい。この体験と経験は、必ず後の人生の中で生かされます。このプログラムは将来、教員や指導者を目指す学生には特に適しているものであると確信を致します。

 加えて、この「卒業旅行&野球」のプログラムの中に、我が家の庭で夕食卓を囲みながら美味しいシーフードを食べ、私自身の奇妙かつ波乱万丈な人生経験からの人生教訓講演会を取り入れています。社会人となる学生たちは、人生過程の中で現状大きな不安を抱いている学生も多いものです。野球系列の後輩である学生たちへ、このバリ島で出会った機会を大切にし、何かしら記憶の奥に収納出来るような事項を私の自己体験から吸収して頂きたいという意図のもと、毎年我が家でのガーデンパーティーを行なっています。

 観光地や避暑地を含む他のアジア野球途上諸国も同様に、このバリ島での「卒業旅行&野球」プログラムを1つの例として取り込んで行くことも、野球の発展と向上において重要な部分ではないでしょうか。日本の高度な野球を各野球途上国に取り込んで行くことは、その国の野球選手のモチベーション向上に絶大なもので、貴重な1つの野球向上プログラムだと判断をします。

 そして何よりも両国の選手間同士による将来的な交流という、個々の人生での人脈における財産の形成にも連動するプログラムです。数年後の新婚旅行や社内旅行などで、再度バリ島を訪れるかもしれません。また、将来的に仕事面においてインドネシアとの繋がりが発生するかもしれません。その様な時に、大学の卒業旅行&野球交流で出会った仲間や友人であるインドネシア人が多く存在するということは非常に心強いことです。

 我々は野球の国際交流の推進をしていますが、野球だけという特化した部分だけではなく、その範囲を超えてより深く個々の人生へ、良き影響と付加価値の提供を考え含めて行なっております。
 是非!他の大学の方々もグローブを持ってバリ島に来て下さい。既にバリ島で野球をしている150人強の選手たちは、あなたの友達です!

日本人監督の挑戦
著者プロフィール
野中 寿人(のなか かずと)
1961年6月6日生。日大三高野球部在学3年の夏に西東京代表にて全国高等学校野球選手権大会に出場。
その後、日本大学体育会硬式野球部へ進学。日本大学では1年の秋から体調を壊し2年間の休部をし、現役野球人生を終える。大学卒業後は、フィリピン、サイパンなどで仕事をし2001年にインドネシアのバリ島へ移住。2004年からバリ島の子供達に野球を教え始め2005年にリトルリーグを発足。2006年にはバリ州代表監督に就任、また、クラブチームを発足。2007年にはインドネシア代表ナショナルチームの監督に就任。2007年のSEAゲームスで銅メダル、2009年のアジアカップで優勝、同年のアジア選手権大会へ出場。その後、インドネシア代表ナショナルチームの監督を辞任し、地方州底上げの為に、東ジャワ州代表監督に就任。2011年のインドネシア国体予選で準優勝、2012年のインドネシア国体前哨戦で優勝、同年のインドネシア国体決勝大会で銅メダル。そして2014年からインドネシア代表ナショナルチームの監督に復帰をし、2015年の東アジアカップで準優勝。

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